たんたんたんとした日々のこと

障害のある子供たちと過ごす日々のことを綴っています。

うれしかったこと。

一日の活動の最後に、「おわりの会」というのがあります。

その日の感想を、子供たちが前に出て発表します。

その中で、ある子がこんなことを言ってくれました。

「○○さん(僕の名前)と鬼ごっこして楽しかったです!」

なんだかしみじみと嬉しかったという、それだけの話です。

まちがいさがし。

① 靴をげた箱から出す。

② 靴を履く。

③ 靴を脱ぐ。

④ 靴をげた箱にしまう。

⑤ ①に戻る。

 

今日の彼はこの一連の動作をさっきからずっと続けています。

 

彼は自閉症で物事に対し、自分なりのこだわりがあります。ひとたびそのモードに入ると、こちらの呼びかけは聞こえなくなるほどの集中力を持っています。今日は靴の出し入れが彼のお気に入りなのでしょう。

 

傍らでその様子をずっと見ていて、僕自身のやっていることも似たようなものだな、とふと思ったのです。

 

一日の行動っておおよそ決まってませんか?

 

決まった時間に起きて、決まった時間に会社や学校に行って、といった具合にスパンが「一日」か、それとも彼のように靴の出し入れの「数十秒」かの違いだけ。

 

その差は大きいでしょ、って思うかも知れないけど、それは自分の視点で見ているだけで、例えば宇宙人とかが見たら人間ってのは同じことばっかりやってるな、って思うんじゃないかな。

 

障害のある人を見る時に、つい「違い」を見てしまうのだけど、実は同じところの方がはるかに多かったりするんじゃないかな。

 

別にこれは障害に限ったことじゃなく、人種や宗教や国家でも「違い」の方に意識がいって、はるかに多い同じところが見えなくなってないかな。

 

そのことで「壁」をつくっているとしたら、なんかもったいないな、って思ったのです。

 

 

 

異文化コミュニケーション。

先日、外国で暮らした経験のある方と話す機会がありました。

その中で「文化の違い」というフレーズを聴いたときに、ふと思ったことがありました。

障害のある子供たちと接することも「障害」ではなく実は「文化の違い」に触れているのかな、と…。

そもそも文化が違えば価値観や習慣が違っても当たり前ですよね。

外国へ行く人だったら、「文化の違い」に触れること自体が楽しみのひとつなのではないでしょうか。

「お尻がかゆい」と思えば、人前だろうとパンツを下ろしてボリボリ掻いたって、そういう文化なのかもしれない。

さらには僕の手を取って、お尻を掻くようせがむのも文化が違えばありなのかもしれない(笑)

「障害」と捉えると、どうしてもマイナスな印象が伴うように思いますが、「文化の違い」と捉えることで大きく印象は変わるのかもしれません。

郷に入れば郷に従え。

お尻は掻くけど、ち○ち○は自分で掻いてくれ。

長いあいさつ。

おなじことを会うたびに話す女の子がいます。

女の子 「クルマまえのる」
 僕  「前に乗りたいの?」

女の子 「ベルトかんでたべる」
 僕  「シートベルトは噛んで食べないでね」

女の子 「ガラスばしばしたたく」
 僕  「ガラスは叩かないでね」

女の子 「ゆかでごろねする」
 僕  「床では寝ない方がいいかな」

女の子 「くつなげる」
 僕  「出来れば靴は投げないで欲しいな」

女の子 「こなこなする」
 僕  「コ、コナコナ? コナコナもしない方がいいかな。…たぶん」

だいたい毎回、こんな感じです。

他にもパターンはありますが、これを一日の中で何度もやりとりします。

楽しそうでしょ(笑) 

ところで、これは彼女の中では「あいさつ」みたいなものなのかなって思うのです。

言葉のひとつひとつに意味があるというより、相手と言葉を通してその場を「共有」している感じ。

…大袈裟かな? 

でも「お早う」とか「こんにちは」って挨拶するとき、言葉の意味を伝えたいわけじゃないでしょう?

その瞬間のお互いの存在を認めるための行為なのかなって思うのです。

お互いに、ここにいて良いんだよって。

それを彼女は一言ではなく、長い言葉のやりとりを通して行っているのかなって。

これってとても「贅沢な時間」だと思うのです。

…それにしても「コナコナ」って何だろう?

感謝。

子供たちを連れてお菓子屋さんにアイスを買いに行きました。

ところが店に入った途端、ひとりの自閉症の男の子がパニック状態に…。

大声をあげながらその場にしゃがみこみ動けなくなってしまいました。店の外へ連れ出そうにも暴れて言うことを聞いてはくれません。

…困りました。

とりあえずお店の商品や他のお客さまに迷惑のかからぬよう、スタッフで取り囲み、なんとか落ちつかせようと試みます。

しかし一向に落ち着く様子もなく、むなしく時間が過ぎていきます。

でも今回はお店のスタッフの方に本当に救われました。

平謝りのこちらにこんな風に言ってくださったのです。

「大丈夫ですよ。一番大変なのはその子自身ですものね。」

そしてなんとか彼を外へ連れ出し、改めてお詫びをした時には…。

「気にしないで、また来てくださいね。」

こんな言葉をかけていただけるとは…。

感謝しかないって、こういうことを言うのでしょうね。

心と身体。

夏休みに入ってから、暴れん坊少年はほぼ毎日やって来ます。
https://tantantanto.hatenablog.com/entry/2018/07/25/113434

そして彼と野球(プラスチックのボールとペットボトルのバット)したり、水遊びしたり、プロレスごっこして過ごしています。

彼は一時たりとも休むことなく、全力で遊びます。この無尽蔵の体力はどこから来るのでしょうね。こちらの体力などお構い無しです。ジム通いなどせずとも、彼に鍛えられています。

ところで彼を見ていて思うのは、心の動きがそのまま身体の動きとなっているということです。

やりたい、と思ったらすぐやる。

やっちゃダメと言われていることでも関係なし!世間の常識やルールなんてクソくらえ!…とそこまで思っているかはわかりませんが。

でもこれってある意味すごいですよね。

僕もそうですが大人になっていくにつれ、世間の目を気にするようになっていくように思います。自分がしたいことに素直に生きるのって難しくないですか?

自分の価値観よりも世間の価値観(と自分が思いこんでいるもの)に合わせていくことが増えていって、いつの間にか自分が何をしたかったのかすら見失ってたりして…。

彼を見ているとそんなことを考えさせられます。

そんなことを考えながら、彼にはこのまま自分に正直であってほしいと思いつつ、ちょっとはこっちの言うことも聞かんかい、とも思うのです。

観察者失格。

お盆休みに入り、子供たちと会わない日々です。

畑仕事をしたり、本や映画を観たり、昼寝したりとのんびり過ごしています。

そしてふとした時に、子供たちは今頃何してるかなあ、なんて思ったりします。

何でしょうね、この感覚は…。

この仕事を始めたきっかけは「障害のある人たちと一緒に生きた方がいいよ。」というある方の言葉の真意を知りたかったからです。

言ってみれば「好奇心」なんですよね。

だから最初は障害のある子供たちを「観察」しているような感覚だったように思うのです。

障害のある人を支援したいとか、社会貢献したいとか思っていたわけではないんです。正直なところ…。

それがいつの間にか、「一緒にいること自体が楽しい」と思うようになっていました。

そうなるとただ「観察」しているなんて、勿体なくて耐えられなくなってきます。

身体全体で彼らの存在を感じてみたい、体感したいっていう感じでしょうか。

よくわからないけど、よくわからない魅力があるようなんです、彼らには…。

盆休みは今日で終わり、明日から仕事です。

また彼らに会えると思うと、なんか嬉しいんです。