たんたんたんとした日々のこと

障害のある子供たちと過ごす日々のことを綴っています。

異文化コミュニケーション。

先日、外国で暮らした経験のある方と話す機会がありました。

その中で「文化の違い」というフレーズを聴いたときに、ふと思ったことがありました。

障害のある子供たちと接することも「障害」ではなく実は「文化の違い」に触れているのかな、と…。

そもそも文化が違えば価値観や習慣が違っても当たり前ですよね。

外国へ行く人だったら、「文化の違い」に触れること自体が楽しみのひとつなのではないでしょうか。

「お尻がかゆい」と思えば、人前だろうとパンツを下ろしてボリボリ掻いたって、そういう文化なのかもしれない。

さらには僕の手を取って、お尻を掻くようせがむのも文化が違えばありなのかもしれない(笑)

「障害」と捉えると、どうしてもマイナスな印象が伴うように思いますが、「文化の違い」と捉えることで大きく印象は変わるのかもしれません。

郷に入れば郷に従え。

お尻は掻くけど、ち○ち○は自分で掻いてくれ。

長いあいさつ。

おなじことを会うたびに話す女の子がいます。

女の子 「クルマまえのる」
 僕  「前に乗りたいの?」

女の子 「ベルトかんでたべる」
 僕  「シートベルトは噛んで食べないでね」

女の子 「ガラスばしばしたたく」
 僕  「ガラスは叩かないでね」

女の子 「ゆかでごろねする」
 僕  「床では寝ない方がいいかな」

女の子 「くつなげる」
 僕  「出来れば靴は投げないで欲しいな」

女の子 「こなこなする」
 僕  「コ、コナコナ? コナコナもしない方がいいかな。…たぶん」

だいたい毎回、こんな感じです。

他にもパターンはありますが、これを一日の中で何度もやりとりします。

楽しそうでしょ(笑) 

ところで、これは彼女の中では「あいさつ」みたいなものなのかなって思うのです。

言葉のひとつひとつに意味があるというより、相手と言葉を通してその場を「共有」している感じ。

…大袈裟かな? 

でも「お早う」とか「こんにちは」って挨拶するとき、言葉の意味を伝えたいわけじゃないでしょう?

その瞬間のお互いの存在を認めるための行為なのかなって思うのです。

お互いに、ここにいて良いんだよって。

それを彼女は一言ではなく、長い言葉のやりとりを通して行っているのかなって。

これってとても「贅沢な時間」だと思うのです。

…それにしても「コナコナ」って何だろう?

感謝。

子供たちを連れてお菓子屋さんにアイスを買いに行きました。

ところが店に入った途端、ひとりの自閉症の男の子がパニック状態に…。

大声をあげながらその場にしゃがみこみ動けなくなってしまいました。店の外へ連れ出そうにも暴れて言うことを聞いてはくれません。

…困りました。

とりあえずお店の商品や他のお客さまに迷惑のかからぬよう、スタッフで取り囲み、なんとか落ちつかせようと試みます。

しかし一向に落ち着く様子もなく、むなしく時間が過ぎていきます。

でも今回はお店のスタッフの方に本当に救われました。

平謝りのこちらにこんな風に言ってくださったのです。

「大丈夫ですよ。一番大変なのはその子自身ですものね。」

そしてなんとか彼を外へ連れ出し、改めてお詫びをした時には…。

「気にしないで、また来てくださいね。」

こんな言葉をかけていただけるとは…。

感謝しかないって、こういうことを言うのでしょうね。

心と身体。

夏休みに入ってから、暴れん坊少年はほぼ毎日やって来ます。
https://tantantanto.hatenablog.com/entry/2018/07/25/113434

そして彼と野球(プラスチックのボールとペットボトルのバット)したり、水遊びしたり、プロレスごっこして過ごしています。

彼は一時たりとも休むことなく、全力で遊びます。この無尽蔵の体力はどこから来るのでしょうね。こちらの体力などお構い無しです。ジム通いなどせずとも、彼に鍛えられています。

ところで彼を見ていて思うのは、心の動きがそのまま身体の動きとなっているということです。

やりたい、と思ったらすぐやる。

やっちゃダメと言われていることでも関係なし!世間の常識やルールなんてクソくらえ!…とそこまで思っているかはわかりませんが。

でもこれってある意味すごいですよね。

僕もそうですが大人になっていくにつれ、世間の目を気にするようになっていくように思います。自分がしたいことに素直に生きるのって難しくないですか?

自分の価値観よりも世間の価値観(と自分が思いこんでいるもの)に合わせていくことが増えていって、いつの間にか自分が何をしたかったのかすら見失ってたりして…。

彼を見ているとそんなことを考えさせられます。

そんなことを考えながら、彼にはこのまま自分に正直であってほしいと思いつつ、ちょっとはこっちの言うことも聞かんかい、とも思うのです。

観察者失格。

お盆休みに入り、子供たちと会わない日々です。

畑仕事をしたり、本や映画を観たり、昼寝したりとのんびり過ごしています。

そしてふとした時に、子供たちは今頃何してるかなあ、なんて思ったりします。

何でしょうね、この感覚は…。

この仕事を始めたきっかけは「障害のある人たちと一緒に生きた方がいいよ。」というある方の言葉の真意を知りたかったからです。

言ってみれば「好奇心」なんですよね。

だから最初は障害のある子供たちを「観察」しているような感覚だったように思うのです。

障害のある人を支援したいとか、社会貢献したいとか思っていたわけではないんです。正直なところ…。

それがいつの間にか、「一緒にいること自体が楽しい」と思うようになっていました。

そうなるとただ「観察」しているなんて、勿体なくて耐えられなくなってきます。

身体全体で彼らの存在を感じてみたい、体感したいっていう感じでしょうか。

よくわからないけど、よくわからない魅力があるようなんです、彼らには…。

盆休みは今日で終わり、明日から仕事です。

また彼らに会えると思うと、なんか嬉しいんです。

祈り。

彼は日々の祈りを欠かしません。

そのスタイルは正座をした状態から床に額をつけ、両腕は真っ直ぐ前方へ伸ばし、手のひらも床につけます。

どこかイスラム教の礼拝様式にも似ていますが、実際に彼が何を信仰しているのかはわかりません。

そもそも信仰なのかもわかりませんが…。

「君は何に祈っているの?」と聞いてみたことがあります。

彼は八重歯を見せながら微笑んでくれましたが、答えてはくれませんでした。

愚問だったのでしょう。

そして彼がひとたび祈りのポーズに入ると、何人たりともそれを遮ることはできません。

無理に動かそうとしても岩のように固まってびくともしません。凄まじい集中力。屈強な柔道家でもこの状態の彼を寝技に持ち込むことはできないでしょう。

「おやつの時間だよ。」の声にも、くすぐり、か○ちょうにも動じません。

そして祈りが終わると、立ち上がり歓喜の声をあげながら柏手を打ちつつ、走りながらの高速ターンを決めるのです。

どうやら今日も神との対話は滞りなく済んだようです。

か○ちょうで神聖な儀式を邪魔しようとした自分が恥ずかしくなります。

手をつなぐ。

自然に人と手をつなげたのって、たぶん記憶に無いくらいの幼い頃だけだったと思います。記憶に無いのでわかりませんが…。

ところで彼らは実に自然に手をつないできます。

躊躇も戸惑いも感じさせず、世間の目なんてものも軽々と飛び越えて。

そんな風に人と手をつなげる彼らを、ちょっと羨ましく思うのです。

大人になるといろんなもの(でもそのほとんどは自分が作り出したか思い込んでいるだけかもしれないけど…)が邪魔をして、素直に感情や行為を表には出せなくなるように思います。

ただ手をつなぐ。

それだけのことが何でこんなにも穏やかな気持ちにさせるのでしょうか。

そしてひとしきり手をつないで、気がすむとふいっと何処かへ行ってしまいます。

その潔さもまた真似のできないところなのです。